学園ブログ

「推し」の短歌を鑑賞文に

中等部2年の国語では、1学期の最後に「短歌」を学習しました。古典的な作品から現代作品までを鑑賞し、その発展として、鑑賞文を書きました。

図書館にあった3冊の本と百人一首から、数首を選んで5つのグループを作り、それぞれの共通点や違いも意識して書きました。力作ぞろいでしたが、その一部を紹介したものが図書館に掲示されてます。短歌は、短い言葉の中に思いをぎゅっと凝縮しており、それに様々な角度から光を当てて味わうこと、そして複数の作品を比較してみることで、多くの発見があったり、考えが広がったりします。生徒たちにとっては、「推し」の短歌ができたようです。2学期には、短歌創作も行います。

Aさん

最初の短歌は幼い頃に見た自分の印象に残っていることを歌にしたものだ。それまで思っていた幼い頃の作者の父に対するイメージが変わったのではないか。短い文章でも幼い子がパニックになっている可愛らしい光景が目に浮かぶ。幼い頃は些細なことでも発見するとずっと覚えていることが多く、その感覚を懐かしむ人も多いのではないだろうか。それを思い出させ、読んでいる人が楽しめるように工夫されていると感じる。

二つ目の短歌は日常生活の中で鍵を忘れるという内容である。沢山買い物をしたのではなく、「水だけ」を買いに出たというところがまた鍵を忘れたときの悲しさを引き立てており、「世界に閉じ込められる」という一見矛盾しているように感じる面白い文章で、自分のいた建物に戻れなくなったときの絶望感が伝わる。多くの人が体験したことのある内容であるため、読んでいる人の共感を得られるものだったのも工夫の一つなのではないかと感じた。自分も小さい時になぜだろうと不思議に感じたことや、日常で起きたことは覚えていることがある。

この二つの短歌に共通する、「誰しもが体験しうること、もしくは体験したことのある内容」でかかれているのが読み手をひきつける一つのポイントなのだと思った。

 

Bさん

この三つの短歌には共通して「ドラえもん」が使われている。「ドラえもん」というと、なんでも道具を持っていて沢山の人に夢を与えてくれる存在であると私は思っている。最初の短歌では、筆者が現実的な困難に遭ったとき、現実世界に現れることのないドラえもんが自分のいる世界にいて欲しいと願うばかりに、青と白という青空の配色だけでドラえもんを連想してしまったのではないか、と考えた。ドラえもんはどんな困難でも免れることのできる道具を持っていると筆者は考えたのだと思う。

二つ目の短歌では筆者がテスト勉強中に無意識にドラえもんの絵を書いていたことが伝わってくる。私は、テスト勉強に集中できないとき、現実逃避をしたくなることが多くある。この作者も現実逃避をして、自分の夢に中にいるドラえもんを想像し無意識に絵を書いていたのではないか。

三つ目の短歌では夢を与えてくれるドラえもんと駄菓子屋の前でドラえもんと同じグーの手の形をしている子どもたちを筆者が微笑ましく見ている姿が想像できる。子どもたちの手に握られている百円が子どもたちにとってドラえもんと同じ存在の「夢」であると考えられる。

(中2 国語担当 上野・道具・兼子)